2013年04月14日

イスラーム圏の生活に飛び込んでみて

 ブルネイ・ダルサラーム王国、イスラーム教国であり王権の社会。

 私はブルネイの家庭にホームステイをし、そこのステイ先の父親が厳格なムスリムでイスラームの教えを私によく説いてくれた。日本にいては触れ合うことのほとんどないイスラームの考え方や生活、ブルネイの国のあり方について良い意味での衝撃を覚え、今まで間違った偏見というフィルターを通して社会を見ていたのかもしれないと気付かされた。だから今回はイスラームについて実際に肌で感じたものと事前に調べいた知識を融合し紐解いていけたらいいと思う。


 私の家庭では、ホームステイ中に親戚の結婚式の式典に参加する機会が多かった。まず、結婚式という儀式からみたイスラームに対する発見をレポートしていくことにする。家族と同様、私もイスラームの伝統衣装のバジュクロンを着用し、髪の毛を全てベールの下に隠し、肌の露出をゼロにして参列させてもらった。なぜ肌や髪を覆い隠すかというと、人間は、本来悪でも善でもないが、弱い存在であるという考えをもとに、誘惑に負けやすくなる状況をつくらないことが良いとされる。不特定の男女が肌を見せて接触していると、性的誘惑に惑わされるから、手首、手足までの長い衣服をつけ、女は髪の毛をおおう「ベール」をつけるのだ。このバジュクロンは色とりどりの美しい柄があり、中にはブローチなどの装飾品もつけて女性たちは思い思いにおしゃれを楽しんでいる。実際にバジュクロンを着てみた感想は、暑い気候で体中全て衣服をまとうのはうっとうしいのではないかとは思ったが、これが意外にも快適で風が通りやすく、中はロングスカートのようなので着心地が良いのだ。しかし、丈が長く、裾がそこまで広がらないので、大股で障害物を跨ごうなんてすると横転する。(ちなみに私はスネを強打し青タンがくっきり刻まれることになった。)小股で歩かざるを得ない。
  

 結婚式では、式場の半分が男性陣だけのテーブル、もう半分に女性陣のテーブルと明確に男女で席が別れており、日本のように式場で男女が同じテーブルを囲むことはない。また、結婚の儀礼の時も酒類はいっさい登場しない。それは理性や知性は神からのおくりものであり、これを磨くことはがイスラームとするが、人間を麻痺してしまうもの、たとえば酒のようなものは禁止したほうがよい。弱い人間に酒を飲ませると、なにをしでかすかわからない。さきに禁酒ということにしておけば、社会の秩序は保たれ、個人も平安であると考える。だから、甘く熱い紅茶かコーヒーを飲みながら、カラフルに着色された甘いお菓子を頬張り談笑しているのだ。とくに、お菓子は黄緑の着色が多く、日本人の私にとっては強烈な色を見て食欲を掻き立てられないが、勧められるのでとにかく食べてみるが、とにかく甘いのだ。ココナッツや、シロップ漬けのお菓子、餅のようなお菓子がならぶ。普段の食事はタイ米を主食に鶏肉や野菜を食べていて、これは日本人の口には合って美味しく、どんどんご飯が進んでしまう。しかし、1日に4食ほど食べていたので、ブルネイにいたら私は3倍くらい膨れあがってしまいそうだ。



 イスラームでは、神と人の領域は、厳格に区別され、神を中心に動く。人間は本来弱い存在であるということを認め、人間と人間の約束は神の意思があれば履行されるとする。人間が弱い存在であることを、潔く認める。だから、結婚の時も「お互いを永遠に愛します」などと、結婚する本人たちに誓わせたりもしない。弱い人間同士のこと、結婚を継続していけなくなる場合もあり得る、すなわち、離婚のときにはどうするのかという具体案も、結婚のときに、あらかじめとりきめておく。結婚も一種の社会契約であるのだ。


 人間同士の約束ごとで大事なことは契約に持ち込み、緊張関係が出来るが、そうでないものは「神に意思あらば」とゆったりとした関係になる。明日何時に集合と決めておいたとしても、「神の意思あらば」と答え、イエスとかノーという言葉で意思表示しない。たいていの日本人は、いいかげんな、あてにならない返事をされたという感じ、いらいらする。「約束」は約束であるから、つまらない約束も悪い約束も、とにかくすべて守るべきであると、機械的に時間通りにとは考えない。優先順位は、状況の動きにつれて、そのときそのときで変わるものだと考えられるのである。私のステイ先の父親は、前日に集合時間を確認し、明日のプランを話し合っていても、「祈り」の時間を中心に生活するので当日にいきなり予定変更することが多かった。最初はやはり戸惑ったが、イスラームにとって「祈り」の時間が一番優先だという精神と触れ合っていくうちにあまり気にならなくなった。
  

 礼拝は1日に五回あり、時間帯にはそれぞれかなりゆったりとした幅があり、人々はそれぞれその日の生活に応じて、適当な時間に礼拝を取りこんでいる。立ったり座ったり、首をまげたり、声を出したりの動きのある礼拝は、心身ともにさわやかになり、その日の体のコンディションを知り体や心に耳を傾けることも出来て健康管理にも役立つ。「祈り」は、なにより人々の生活リズムを作っており、「礼拝」そのものが彼らのなすべき、最も大事なことなのである。


 来世の幸せを得る為に、この世においては、礼拝をし、断食をし、信仰をあつくし、善行に励むことが大事とされる。何か自分にとって悪いことが起きても、それは神が与えてくれた試練であり、乗り越えられるからこそ自分に試練を与えてくれたのだと、良いことはいずれ自分にも回ってくるものだと捉える。また、困ってる人には助けることが当たり前であり、助けてもそれをおこがましく振りかざしたりはしない。口論になっても怒ることなく一旦受け入れてあげる。家族を一番大事に思いやる。このようなイスラームの考え方を説いてもらい、今の日本では忙しい時間の波にもまれ、何か忘れてしまっていた大切な部分に気付かされた。寛大な心で私達を受け入れてくれたブルネイの人々に教わった、言われれば当たり前かもしれないけれど意識しないと忘れてしまう大事なことをこれからも心に刻んでおきたいと思った。


3年  堀越


posted by 11ほりこし at 09:16| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | kanko11 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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