2009年07月16日

日アジフィールドワーク〜浅草戦跡巡り〜

090711_1448~01.jpg090711_1642~02.jpg今回のフィールドワークでは、太平洋戦争がいかに悲惨だったかを肌で感じることができ、非常に有意義なものになりました。
被災者である中川さんのお話をどう聞くべきかという議論がありましたが、彼女1人のお話で戦争の全てが分かるわけではないし、戦争を考える上で、ひとつの主観的な意見として聞き入れるべきだと思いました。そこを批判的な目で彼女のお話を聞いてしまうと、戦争を理論的な考え方でしか捉えられなくなるし、戦争を多面的に考える上でも、今回は彼女の立場になって、感情移入してお話を聞いていいのではないかと思いました。『かわいそうと思って聞いてはいけない』という考えは、それは私達が戦争を体験していないからであって、体験していないからこそ、中川さんによる主観的な意見と、他の立場の情報を集めた客観的な意見の両方を持つ必要があると思います。

以下、足を運んだ場所ごとの感想を述べようと思います。

*隅田川
1945年3月10日、B29による東京大空襲で、11000人中7000人が隅田川で亡くなりました。浅草は木造住宅が多いため、火が燃え広がりやすかったそうです。米軍は、強い偏西風が吹いていたためと命中率を上げるため、高度2000mの低空飛行をし、アパーム弾40万個を浅草に落としました。樹木や家は全焼し、人々は川に飛び込んでも助からず、その死体は何ヶ月も経ってから浮いてきました。ここでは約4000人が亡くなったそうです。関東大震災の復興に伴ってできた言問橋ですが、親柱の根本が黒ずんでるのは、空襲を避けるため人が集まりましたが結局空襲で焼けてしまい、人体の油でしばらく焼け続けたためだそうです。こうしたお話を聞いている間も、何とも言えない恐怖感がありました。

*資料館
現物の展示品は生々しく、自分もその場にいるような感覚に陥りました。形見や、死者が握りしめていたもの、日記など、かつてそこに生きていた人が残していったものがたくさん展示されていました。
溶けた瓦もありましたが、瓦が溶けるのは1200〜1300℃だそうで、それだけの高熱を浴びた人達の苦痛は想像できるものではありません。溶けた茶碗・湯飲み・ガラス・硬貨はリアルで、見ているだけで鳥肌が立ちました。
敬礼登校、防毒マスクでおままごと、防空訓練する子どもの写真がありましたが、その光景は不気味でした。今では考えられないことですが、そう強制された時代があったことは事実で、改めて恐ろしい時代だと感じました。

*浅草寺周り
戦争を悼む建造物がいくつかありましたが、焼夷弾を受けた木々が最も印象深かったです。焼夷弾の威力は勿論、こんなに生々しい傷跡を残しているのに、その周りに腰を下ろす人々はそれに気付いていない様子を見ると悲しい気持ちになりました。もっとも、私はお話を聞いたからこそその傷跡に気付けたわけですが、何も聞かされないでその場にいても、私もその木の焼けた跡に目を留めなかったと思います。国内外を問わず、観光客には、やはり浅草の栄えた部分を観るだけでなく、こういったダークツーリズムも体験してほしいと思いました。少し意識するだけで、何気なく生えている木から戦争の悲惨さを知ることができます。


2年 池田菜摘


posted by masutanis at 18:15| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | kanko08 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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